札番 第23番鶏足山 野登寺
お寺の歴史(縁起)
今から千百年も昔のことです。醍醐天皇(在位897~930)はある夜、夢の中に菩薩(仏さま)が現れ、お告げを受けられました「私は、伊勢の国鶏足山に住み、民衆の安穏を祈っています。今この国は乱れ、田畑は荒れ人々は大変困っています。どうか帝の力でこの災禍を取り除いてください」と言われ消えてしまいました。夢から覚められた帝は不思議に思われ、すぐさま勅使を鶏足山に使わされました。
都からはるばるとやって来た勅使はふもとで道に迷って困っていました。そこへ「三本足の鶏」が現れると、勅使の裳裾をくわえ山頂へと案内してくれました。
山頂には、清泉がこんこんと湧き出て老杉悠々と繁り、あまりの幽玄さに勅使は立ちつくしていました。すると、いずこからともなく老僧が現れ「勅命により、ようこそ鶏足山にお越しくださいました。私がご案内します」と言って御堂に上がり、扉を開きますと、身の丈七尺五寸(2.2m)の眩いばかりの千手観音さまが祀られていました。老僧は、うやうやしく千手観音さまを拝して「この観音さまは、天照皇太神さまお手ずから彫られたもので、数十年来、天照皇太神さまよりつかわされた神職二人がお仕えしておりましたが、その後は二羽の鵠(カササギ)がお世話してまいりました。千手観音さまは、人々の願いに応じてさまざまに姿を変えられ、お救いくださるありがたい仏さまでございます」と申されると姿を消されました。
ハツとわれに返った勅使はたいそう驚き、あの老僧こそは、千手観音さまの仮のお姿であろうと思って、一心に伏し拝み、急ぎ山を下りました。勅使の報告を受けられた帝は、ご霊夢の真実に驚嘆され、早速京の都で高名な仙朝上人を中興開山として遣わされました。
帝は諸国から銘木を運ばせ、伽藍の建立を命ぜられました。仙朝上人は勅命をありがたく拝して、早速腕の立つ大工や細工者を野登山に送り込み工事に取り掛かりました。
こうして延喜七年(907)作業が始まり、同十年(910)四月七日に見事な伽藍が建立され、厳かに落慶法要が執り行われました。
以来680年の間、寺僧は100人を超え、朝夕の読経礼拝の響きは山々に流れ、野登寺はたいそう繁栄しました。
ところが、420年前の天正十一年豊臣秀吉の亀山城、峰城攻めの際、伽藍はことごとく焼き払われ、寺領は没収されました。
古来野登寺は亀山城主の祈願所でありました。江戸時代に入ると慶長六年(1601)野登寺第二十八世盛栄は、亀山城主関長門守一政公の寄進により本堂、庫裡、鐘楼堂を再興しました。それ以後、津城主藤堂高次公はじめ、津城主代々の祈願所として厚い庇護を受けてきました。
上寺は元禄十四年(1701)亀山城主板倉重冬公により本堂が再建され現在に至っています。
享保二年三月(1717)野登寺第三十二世傲栄のとき、城主板倉重治公は新たに下寺を建立して、護摩堂、庫裡、山門、本尊千手観音さまを寄進され、祈願所とされました。
まことに千手観世音菩薩の霊応霊感はありがたく、こんにちも多くの檀信徒が参拝されます。
※鵠(カササギ)=全体は金属光沢の紫色、尾が長く、頭、背、胸、下腹は黒、腹と肩は白く目立つ。カシヤ、カシヤと鳴く(天照皇太神と縁が深い鳥といわれます)
※中興開山=一度盛んになったものを、再び盛んにすること
○野をのぼる寺こそ是よ鶏の 朝の声は法の言の葉
山号名にしおふ、にはとり当山開闢以来いまに鶏鳴をとなふるも、誠にそのあかつき示し給ふ観音の御のりかと、たのもしく又とふとし。麓の池山村に里坊いとよろしくしつらひつねは法印此寺に住居し侍る也。(『勢陽雑記』より)
概要
-
山号
鶏足山(けいそくざん)
-
寺号
野登寺(やとうじ)
-
宗派
真言宗
-
祭祀
千手観世音菩薩
ご案内
-
住所
三重県亀山市安坂山町2033-1
-
電話
0595-85-0729
-
御朱印場所
当寺受付
-
参拝時間
8時〜17時
-
公式サイト
見どころ
●年中行事
・2月3日:下寺/星供会(節分星祭り)
・4月7日、8日:上寺/ののぼりさん五穀祭
・8月9日:上寺/十日観音縁日
・8月15日:下寺/施餓鬼供養会