札番 第25番補陀洛山 勅願院観音寺
お寺の歴史(縁起)
当山は、神亀4年(727)小野の湊(現在の大浜町地内)に出現せられた四足八鳥如意輪観世音菩薩を人皇45代聖武天皇が深く帰依し給い天平9年(737)登城山に一宇を創建して補陀洛山観音寺と名づけられた。
その後貞観6年(864)天台宗第三祖智証大師が来山され七堂伽藍を建て、天下七十二坊の一とされ鎮護国家の大道場とされた。
鎌倉時代の宝治2年(1248)浄土宗第三祖記主禅師が関東に布教に行かれる途中当山に立ち寄られ、伊勢の国の念佛弘通の根本道場とされ、この村の長者に観阿弥、道阿弥、専阿弥、誉阿弥の号を授けられた。すなわち八鳥家の祖、清水家の祖、日永両聖寺の開山、田光九品寺及び桑名十念寺の開山である。当山には、禅師自作と伝えられる禅師木像があり、宗宝に指定されている。また禅師が伝えられた声明念佛は、七百余年相承され現在もお盆の三ヵ日、本堂の記主禅師像を前に唱えられている。
その後大永2年(1522)観世音菩薩が二夜続けて住職の夢枕に立って、現在の地に移転するよう伝えたという。 尚当村を六呂見と称するのは、一説には清和天皇の異母兄の惟喬親王が「ろくろ」で木地の椀器を作る方法を発明して奨励され、その木地師が度会から鈴鹿山麓一帯に存在し、当村もその「ろくろ」に由来するとの説もある。
天文12年(1543)12月19日、後奈良天皇は御綸旨を下賜し、当山を勅願所とされ寺領七町を寄進された。更に正親町、後陽成天皇も勅願所とされたが、その証しとして後奈良天皇の御綸旨は現存して秘蔵されている。当時は正月二日大般若経六百巻を天読して聖寿万安と鎮護国家の祈願をするとともに境内産のお茶を宮中へ献上したという。
文禄3年(1594)太閤の検地により寺領が公没され寺門大いに衰微したが間もなく徳川家康が征夷大将軍となり、当山が元勅願所であることを知ると慶長10年(1605)2月15日元寺領の二十石を御朱印として寄進され、かつ勢州一国浄土宗大本寺の称号と中本山の寺格及び徳川家「三葵」の使用を許された。そこで当山では毎年正月2日に住職が江戸城に登城してお茶を献上し歴代将軍の御機嫌伺いをするとともに、寺では大般若経六百巻を繰って天下泰平を祈願した。
爾来徳川家は当山の観世音に深く帰依せられ、なかでも3代将軍家光公の側室桂昌院は、元禄12年(1699)御戸帳を寄進され、また五代将軍綱吉公の養女竹姫は当山の観世音と全く同じ小型の念持佛を内拝され、寛延4年(1751)には、定紋付水引を寄進されている。
なお徳川時代には、多くの大徳が来寺され念佛を弘通されたが、享保9年(1724)には関通上人も来られ念佛を勧められた。その後、後人が上人の遺徳をしのび、明和5年(1768)関通流の龍宮型楼門を石清水八幡宮の宮司で、当山の檀家でもあった石清水家の寄進により建立された。その楼門が昭和十九年の東海大地震で倒壊したので、同36年3月再建された。
また現在の梵鐘は寛永21年(1644)8月の作で戦時中の供出も逃れている。さらに現在の本堂は寛文5年(1665)の建立で86年後の寛延4年(1751)に大改修をして今日に至ったが、平成6年5月に檀信徒の協力のもと壱億六千萬円の浄財を得て大修復された。
○『勢陽雑記』
補陀落山観音寺 日永村六呂見(一に四足八鳥と書けり)にあり。開山良忠上人、俗姓藤原御堂関白八代の末葉、宰相頼定の孫山僧円実が子也。往昔勒経領七十貫ありしを乱賊の為押領せられぬと云々。之を僧侶大内に訟、時の帝、信長に命而復せられぬ綸旨有り。勧修寺亜相奉云々。信長公没後又領無し。東照権現家康公之洛欲。桑名次、僧侶人を因て寺門の衰亡を而訟。故今二十石を領云々。
概要
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山号
補陀洛山(ふだらくざん)
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寺号
観音寺
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宗派
浄土宗
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祭祀
如意輪観世音菩薩
見どころ
●年中行事
・1月1日:年始受け
・2月2日:星祭
・3月春分の日:春彼岸
・5月25日:御 忌
・8月10日:朝観音
・8月14日:盆挨拶受け
・8月16日:盆施餓鬼
・9月秋分の日:秋彼岸
・毎月8日:永代祠堂
・毎月18日:観音講