札番 第27番富田山 長興寺
お寺の歴史(縁起)
当寺は養老年中の薬師如来をお祀りする草庵がその始まりとされる。 その養老6年(722)に、諸国を行脚されていた泰澄大師が一夜の宿とされた時、薬師如来が夢に立たれ「前にある大木で仏像をつくり、衆生を救え」と告げられた。夢覚めて大木を見るに、大日如来の御形が映るが如く、夢のお告げに任せ、一日一夜にして大日如来を刻まれた。この尊像、人々の諸々の願いをかなえるによって、日をおかずして寺となったと伝えられる。 弘仁8年(817)七月弘法大師が再建され、仁治3年(1242)には満月上人が別当として留錫され、新たに一宇を建立して北島長興寺と称された。 また、創建当初は貧窮者・病者・孤児などを救うための悲田院となっていたといわれている。 当寺は代々真言宗であったが、天文14年(1545)時の城主南部甲斐守兼綱が菩提所として再建して曹洞宗となる。この年九月、半鐘一口・鰐口一口を兼綱は住僧照山長老に贈るなど、城主の信仰厚くその庇護を受ける。 永禄7年(1564)5月28日、鉄門和尚の代に現在地(南部甲斐守の城跡)へ北島より移転したとされるが、詳らかでない。それまでのこの寺は鳥出神社と相接して建っていたとおもわれ、現在この地は大部分関西線の線路敷地となっている。 永禄11年(1568)10月に信長の伊勢進攻により堂宇を失い、天正元年(1573)になって、垂坂観音寺に毘沙門観音などの諸像を預けたといわれている。 明和3年(1766)には本堂が再建され、同4年には永平寺の直末免牘書が下され、永平寺四五世大珍慧鏡禅師寶山湛海大和尚を開山、永平寺四六世真空妙有禅師彌山良須大和尚を二世に請して、大本山永平寺御直末となる。何れも八世策①澳②和尚の代であろう。 十世天明和尚は八世策①澳②和尚の弟子で、師匠の志を継いで伽藍の整備を行い、名実ともに充実した時を迎え、富田六郷の祈願所として善男善女で賑わった。 天保5年(1834)2月、鐘楼門が建立され、天保15年には本尊大日如来さまのご開帳、芝居などが盛大に行われたが、安政元年(1854)6月14日の地震で本堂が破損、明治12年3月17日に十七世竹童和尚によって本堂が再建されるまで、明治維新、廃仏毀釈など、当寺もまた歴史のいたずらに翻弄されるのである。 時明治に至りては、庫裡を富田小学校の仮校舎、本堂を三重県第二中学校(現四日市高校)の仮校舎とするなど、富田山と云う山号の如く、けんか祭や鯨供養等、富田の歴史がそのまま当山の歴史となっていたが、昭和28年境内地を市道で分断され、その姿もすっかり古とは趣を異に致すところとなり、平成8年には老朽化の為、鐘楼門を解体撤去、さらには本堂も昭和19年の地震による打撃の上、伊勢湾台風で浸水するなど、風雪に耐えかねる状況となり、平成13年10月、新たに本堂が再建された。 ①女偏に敕 ②さんずい偏に奥
概要
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山号
富田山(とみださん)
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寺号
長興寺(ちょうこうじ)
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宗派
曹洞宗
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祭祀
聖観世音菩薩