札番 第31番走井山 勧学寺
お寺の歴史(縁起)
当山開基は、聖武天皇の御年(724~49)行基菩薩の草創によるものと伝えられている。
室町の頃(1390~1570)までは走井山北麓にあった。同地内(現在の桑名高校付近)の海善寺が廃寺となり、本尊の千手観音立像が当寺へ移されてきた。走井山矢田城主の矢田市郎左右衛門が深く同観者を信仰していたといわれる。
のち旧記によれば、元和年中(1615~24)濃州本多忠政公の家臣、半弥という信仰厚き人が、大判一枚を寄進し堂宇を走井山上へ引き上げたという。
桑名藩主、松平定重公(1657~1710)の時、現在地の矢田城跡に再建された。
その後、明治の初め(1870~80頃)廃寺の憂き目に遭い、荒廃の極に達していたが近在の信者有志の尽力により再興され、現在の寺姿に復旧した。本堂天井に描かれた「水飲み龍」、奉納された「大絵馬」伝説なども知られている。
境内には、太子堂、地蔵堂、鐘楼堂、庚申塚、仏足石などがある。
毎年8月9日から10日にわたる「十日観音」法要に今も多くの参詣者がある。
納経印は一番大福田寺でうける。
○『勢陽雑記』
走井山勧学寺 伊勢順礼札所三十一番目也。本尊千手観音桑名の入口にあり。
概要
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山号
走井山(はしりいざん)
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寺号
勧学寺(かんがくじ)
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宗派
高野山真言宗
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祭祀
千手観世音菩薩
見どころ
当山の建つ走井山は、戦国の世、北勢の雄矢田氏の居城で天正5年(1577)織田信長に攻められ城主矢田俊元が自刃したという矢田城跡である。風光明媚な高台で、桜の名所となっている。
本尊の千手観音立像は、平安後期の作といわれ(伝行基作)県の文化財に指定されている。
本堂天井の「水飲み龍」伝説とは、その昔この龍が、水を飲みに出て人家を荒らすので、出ないよう釘を打たれたというものである。今も釘跡らしきものがある。大絵馬を共に色は落ちて見えにくい。
仏足石は江戸時代のもので、市の文化財に指定されている。太子堂は、明和年中(1764~72)聖徳太子信仰厚き桑名惣大工中が建立したのが始まりで、最近火災に遭い、平成三年桑名建築組合が再建した。