札番 第21番日照山 圓福寺
お寺の歴史(縁起)
日照山住山寺 亀山より北、行程一里程。住山村に在り。本尊十一面観音。伊勢巡礼の札所20番目也。歌に
はるばると住山寺へ分け入れば仏の恵み深き谷川(『勢陽雑記』より)
当寺は9世紀初め、嵯峨天皇の頃に行基の刻んだ十一面観音を本尊とし、御安座堂・七堂伽藍を建立、開山したと伝えています。当初、寺号は住山寺と号していました。天正6年(1578)織田信長の兵火に遭い、諸堂は灰燼に帰しましたが、事なきを得た尊像を村の東北に建てた小堂に安置し、真言宗に属して命脈を維持しました。
延宝4年(1676)亀山城主板倉重常が清国僧、柏堂禅師を招請して開山とし、住山寺跡に一寺を再建しました。そして山城国宇治の黄檗山萬福寺の末寺となり、寺号を日照山圓福寺と改めました。延宝7年(1679)新像の聖観音を前年に建立した観音堂に本尊として安置し、かつての住山寺の本尊、十一面観音を古仏として併せてお祀りしました。その後、摂州山本村の坂上慰右衛門の寄進により客殿・庫裡を建立するなど、旧地を整理し、南に参道を開き総門を造立、その内に池を巡らし築山を築いて、元禄14年(1701)禅宗式七堂伽藍が完成しました。また、元禄4年(1691)武州東叡山の了応が鉄眼版一切経を寄納、同14年、2間四面の経堂を設けて収納しました。
元禄9年(1696)それまでの柿葺きであった観音堂を瓦葺きに葺き替え、正徳6年(1716)には大破した観音堂を第2世虎丘遺弟北潭の発願により修復、その費用100両については御領林の松樹30本の払い下げを受けました。なお、この年、(のち、圓福寺に戻しましたが)住山寺に寺号を復しました。
当寺は江戸期を通じて亀山城主の崇敬が篤く、延宝7年(1679)板倉重常から寺領高5石と山林35町歩、米30俵の祠堂料を拝領するなど、その後も代々の城主の保護を受けていました。
しかし、明治初めに在住の高僧たちは本山へ去って当寺は無住となり、法灯幽かとなりました。明治32年京都塔頭真光院住職であった先々代が住職となられて、荒廃していた当山を復興されました。
以下は平成7年8月21日付『伊勢新聞』から。「8月20日午後0時35分頃、本堂から出火。木造瓦葺き平屋建て約80平方メートルの本堂を全焼したほか、北東側に隣接する約20平方メートルの仏像などを納めた古仏堂を半焼、本堂裏の山林約800平方メートルを焼き、約1時間半後に消えた。(中略)本堂にあった本尊の聖観世音菩薩坐像(木製・高さ約60センチ)や、以前は経堂に祭られていた釈迦牟尼仏、開山僧の柏堂禅師像など、本堂建立当時からあった仏像多数を焼失した。
現在、本堂跡に仮堂を建て、幸いにも難を逃れた古仏の十一面観音を本尊として安置しお祀りされており、本堂改築を準備中です。
概要
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山号
日照山(にっしょうざん)
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寺号
圓福寺(えんぷくじ)
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宗派
黄檗宗真光派
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祭祀
聖観世音菩薩