札番 第11番丹生山 近長谷寺
お寺の歴史(縁起)
長谷 松坂より南、行程三里半。丹生の泊瀬は多気郡佐那村の内なれども、丹生へ続き 世の人同じ里の様に心得る故、今爰に記す光孝天皇の開基の由。本尊長二丈の十一面観音、作者を知らず。 丹生より二十町計り艮(うしとら・北東)の山の上に、六間に七間瓦葺なり。近長谷寺と云ふ。伊勢順礼の拾壱番目の札所。歌
大和なるはつせの寺もこれと又同じ御法の道にこそゆけ(『勢陽雑記』より)
当寺は仁和元年(885)、この地の豪族正六位上飯高宿禰諸氏(法名仏氏観勝)が内外の近親等に勧進して建立したと伝えています。以来、飯野・多気・度会の豪族が田地を寄進しています。古くは丹生山光明寺と号したといわれます。
本尊は平安後期に作られた木造十一面観音立像(像高6.6メートル)で、大正2年8月20日国宝(重要文化財)に指定されています。弘法大師の師、勤操の尽力により安置されたと伝えるこの像について、大和の長谷寺、鎌倉の長谷寺の本尊と共に一本の木で三体刻まれたともいい、日本三観音のひとつといわれています。同寺所蔵の『近長谷寺資財帳』(天徳2年=958書写、国指定重要文化財)は「金色十一面観音壱躰 御武一丈八尺」と像高を示し、以下、御面長から手長に至る13の各部位の大きさを詳細に記しています。
平安期も過ぎ、創建の飯高氏の勢力の後退に伴い、寺勢は衰えましたが、永正(1504~20)の頃、真海僧都(~1594)が同寺の復興に務め、天正3年(1575)北畠信意(織田信雄)から、その後蒲生氏郷、牧村利貞などから寺領の寄進を受け、山内に七坊の末寺を有するまでに回復しました。さらに二世の政尊(~1653)は、慶長13年(1608)田丸城主の稲葉道通、元和3年(1617)津城主の藤堂高虎から寺領5石の寄進を受け、また、慶安元年(1648)には梵鐘の鋳造、鐘楼の建立に奔走するなど、中興と称されました。
江戸時代には紀州領で高5石の免許があった。寛文元年(1661)参詣した紀州藩の前藩主徳川頼宣が再興を命じた本堂の造営中に木工の仮小屋から出火、人々は懸命に消火に務めたが本堂近くに火が及びました。ときの寺主快養僧都が一心に本尊を念じたところ、強風が起こり火勢は逆に向き、本堂は焼失を免れることができ、寛文3年(1663)落成したと伝えます。
元禄3年(1690)8月、大雨により堂後ろの山が崩れて本堂も損壊しましたが、本尊は難を逃れました。その後、元禄7年(1694)に現在も残る本堂が快舜によって再建されました。「近長谷寺」と改称されたのもこの頃といわれます。(なお、現在の屋根は昭和に入り改修されたものです。)
また、客殿にお祀りされている大日如来座像は、創建当初、光明寺と称されたときの本尊で、像高94センチメートル、平安中期の作とされ町の文化財に指定されています。
なお、近長谷寺の名について、『多気町史』は「安濃郡長谷村(現津市長谷町)の長谷寺を遠長谷寺というのとの対比からである。大和長谷寺からの遠近をいうのであろう」としますが、参拝の際、頂戴した『近長谷寺略縁起』には「伊勢の皇太神宮に近いというので近の一字を加えて、近長谷寺と改称された」と記されています。
概要
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山号
丹生山(にうさん)
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寺号
近長谷寺(きんちょうこくじ)
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宗派
真言宗山階派
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祭祀
十一面観世音菩薩
見どころ
●年中行事
・1月18日:初観音会
・2月18日:春季大会式、本尊開帳、護摩祈祷
・8月9日~10日:四万六千日功徳会
・8月15日:施餓鬼法要
・8月17日:虫(精霊)送り会
・10月18日:秋季大会式
・12月31日:除夜の鐘つき会式
・毎月18日:観音例祭