札番 第33番多度観音堂 – 伊勢西国三十三所観音巡礼公式サイト

札番 第33番多度観音堂

お寺の歴史(縁起)

多度山法雲寺 本尊千手観音、伊勢順礼札所三十三番目也と。わしのくらといふ歌に
  今まではおやとたのみしおひづるを脱て納むるわしのくらにて(『勢陽雑記』より)
天平宝宇7年(763)多度大社の東、鷲の倉の地に満願禅師が道場を開き、丈六の仏像を安置して礼拝、修行をしていました。ある夜、多度大神の神託を受けて、堂塔の建立を発願し、各地を勧進して浄財を募ってこの地に堂を建立しました。そして神像を祀って多度大菩薩と号していました。その後、郡主水取月足から鐘楼と共に銅鐘の寄進を受け、また、美濃の近士県主新麻呂から三重の塔の奉納を受けるなど寺院の基礎ができあがりました。
 宝亀11年(780)勅使を遣わされ、翌天応元年(781)法教禅師は伊勢・美濃・尾張・志摩四国に勧請して、法堂・僧坊などを建立し、仏物・法物・調度を整えて寺は一層充実し、寺運は興隆しました。その後も墾田・寺地の寄付施入を受け、承和6年(839)当寺を天台の別院とする旨の勅命があり、嘉承2年(849)には真言の別院とされ、この時から寺号を宝雲寺と称しました。
 また、延喜5年(905)藤原時平の撰した延喜式には「宝雲寺を以て伊勢国准国分寺に列する」とあり、さらに「官府より度縁を賜る僧十人に及ぶ」ともあります。下って天文2年(1533)時の住僧頼応は「多度山の衆僧宝雲寺以下の寺院七十余あり。且つ寺内の僧侶は三百余」と、学府として数多くの研修僧が集い、参堂して文化の地として栄えていた様子を記しています。
 鎌倉中期の建暦の頃、乱入した盗賊の手により炎上し、また、室町中期には明応地震と山崩れに遭い土中に埋もれるなどの災禍に見舞われましたが、社家の小串家文書に戦国末(天文)期において、なお、堂宇70余坊を存したことが記録されています。
 しかし、長島の一向宗徒が織田信長と対立して一揆を起こし、多度大社で信長の調伏祈願を行ったので、元亀2年(1571)美濃路から進撃した柴田勝家・氏家常陸介の大軍がこの地に押し寄せ、多度大社共々堂塔の全てを兵火により焼失しました。さらに、その後の太閤検地により寺領・社領の廃止に遭い、寺威は全く衰退しました。
 江戸時代に入り、桑名を領した本多忠勝の多度神社復興に次いで、元和3年(1617)松平定勝が藩主となり、遠州掛川から愛宕神をこの地に移し、また、住僧良心法師が各地を行脚して寄付を仰ぎ、承応2年(1653)大修理を行って、多度大社の別当として宝雲寺を再興しました。
 明治の初め、神仏分離の政令により法雲寺は廃寺となったため、神社のお手洗い川、落葉川の畔に観音堂を建て、本尊十一面観世音と千手観世音を併せてお祀りしました。明治33年集中豪雨に遭い、観音堂は流失しましたが、翌年、小堂を再建し両観音像を安置しました。現在の観音堂は昭和38年に信者の寄付により像の修理を行った際に改築し、仏具調度品を整備して現在に至っています。

概要

  • 山号

  • 寺号

    多度観音堂(たどかんのんどう)

  • 宗派

    真言宗

  • 祭祀

    十一面観世音菩薩

ご案内

  • 住所

    三重県桑名市多度町多度山下1613

  • 電話

    0594-48-2037

  • 御朱印場所

    多度大社受付

  • 参拝時間

    8時〜17時

  • 公式サイト

見どころ